中野重治

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略年譜

1908(明治41)年

8月21日 、福井県坂井郡丸岡町(現坂井市丸岡町)巽で生まれる。 

1915(大正 4)年

4月、平章小学校に入学。

1923(大正12)年

3月、平章小学校高等科を卒業。森田銀行(現福井銀行)丸岡支店の給任となる。通信講座「唱歌の作曲」を受講開始する。

1925(大正14)年

文芸雑誌『赤い鳥』8月号に童謡「ちょうちょう」が載る。宮原禎次氏の作曲の添削・指導を受け始める。

1926(大正15)年

2月から自作の曲を謄写版印刷して知人、楽友らに配布する。

1927(昭和 2)年

実姉桶村富久子が今川家に入り、母と3人暮らしとなる。11月、姉洗礼を受ける。

1928(昭和 3)年

地元の劇場「霞座」において催された綿貫兄妹による音楽会で童謡「ペチカ」を初公開。徴兵検査の結果、丙種と判定される。

文部省が全国公募した明治節を祝う曲譜に「大礼奉祝唱歌」が二位に入賞、賞金200円を受ける。

1929(昭和 4)年

福井市宝永小学校校歌を作曲し、混声四重奏で発表する。

1930(昭和 5)年

4月、丸岡ローレル楽団創立記念演奏会が霞座で開催される。

福井中学校校歌を作曲。

1931(昭和 6)年

ローレル楽団第2回演奏会を霞座で開く。

7月、姉富久子が肺結核により死去(25歳)。8月、ローレル楽団第3回演奏会を丸岡高等女学校で開く。

1932(昭和 7)年

「爆弾三勇士」などの歌を広めるため、ローレル楽団への出演要 請が続く(福井、敦賀、春江、大野など)。

第1回音楽コンクールに「ローレライ変奏曲」で応募、落選する。福井市を訪れた作曲家山田耕筰氏に初対面する。

1933(昭和 8)年

4月、坂本牧師山梨へ転任、後任赤木牧師となる。

5月、東京の日比谷公会堂で行われた第2回音楽コンクール作曲部門で交響曲組曲「四季」が見事全国一位入賞を果たす。

肺結核の病状が悪化し、病床に就く日が多くなる。銀行を退社。

1934(昭和 9)年

1月、童謡「苗代太鼓」、オルガン独奏曲「静寂」「祈り」「エレジー」「カノン」を作曲。

3月、管弦楽「子供の交響曲」などを作曲。

5月12日、肺結核のため他界(25歳)。