「今川節」物語
今川節は、明治41年8月21日、福井県坂井郡丸岡町巽町に生まれました。
平章小学校の高等科を卒業後、同町谷町の森田銀行の給仕になり、同時に好きな音楽の道をめざして児童文学雑誌「赤い鳥」の音楽通信講習で作曲の勉強を始めました。
北原白秋の詩「ちょうちょう」に作曲して応募したところ、大正14年の「赤い鳥」8月号に成田為三氏の推奨作品として掲載されました。
18歳の時、「雪の降る夜はたのしいペチカ」で始まる白秋の詩に複合7拍子という稀に見る技法で「ペチカ」を作曲、彼の代表作品となりました。
昭和3年までに100曲ほど作曲し、通っていた教会の謄写版印刷機を借りて印刷、楽友や知人に送り、批評を受けながらさらに能力を伸ばしていきました。
昭和3年8月、文部省は昭和天皇の即位を祝って「大礼奉祝唱歌」を募集しました。彼は、全国から寄せられた作品の中から2等入選を果たし、広く世に知られ始めることになりました。この時の賞金200円で手に入れたオルガンは、彼の生涯のよき伴侶となりました。
昭和5年、同好者約20名が集い、丸岡ローレル楽団を結成、4月5日に地元の霞座で創立記念演奏会を開きました。
昭和7年5月には時事新報社主催による第1回音楽コンクールが開催され、「ローレライの主題による交響変奏曲」を作曲し応募しましたが、力量至らず落選。しかし、才能を認めた山田耕筰氏の手厚い激励を受け、さっそく年末から次回コンクールに向けての準備に入りました。郷土の風景を念頭に作曲した交響組曲「四季」は無事予選を通過。裏返しに仕立て直され右胸にポケットのついた背広は、東京日比谷公会堂のステージで紹介された彼の立派な晴れ着となりました。独学の彼が新進作曲家の2人をおさえ見事作曲部門の第1位に輝いたのです。
こうして、大いに将来を期待された今川節でしたが、日ごろから患っていた肺結核がとみに悪化。帰郷後数日して喀血し、病床につく日も多くなり、銀行も退職せざるをえなくなりました。丸岡ローレル楽団の人たちや友人・知人が「今川君を救え!」と救済基金募集などに立ち上がりましたが、特効薬にも恵まれぬ時代のこと、体調はみるみる衰えていきました。「ぜひとも第1シンフォ二―を書きたい!」と、熱い信念を抱きましたが、昭和9年5月12日、母や友人たちにみとられながら、彼は25歳の生涯をとじました。
代表作「ペチカ」は、この年の12月にキングレコードから東海林太郎氏の歌で「ペチカ燃えろよ」として全国にレコード発売されました。
「ペチカ」のメロディーは、毎日午後6時と9時を告げる時報として、市内全域に流れています。